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最終更新日 2004年7月11日

深夜にボートで行こう、「夢の島」まで

1991年秋。 景気の先行きに陰りが見え始めてきたものの、まだまだバブルの名残が色濃く漂っていた、そんな時代であった。 もっとも学生寮に在住していた我々などは、新聞の折り込みチラシの「目黒区2階建て新築5億3500万円」などという文句や、テレビドラマ「東京ラヴストーリー」(再放送)のカンジとリカのきらびやかな生活にのみ、その時代の息吹を僅かに感じているにすぎなかった。 そしてスルメを肴に安酒をあおりながら、僕らもいつかは贅沢な生活がしたいよねー」、「また変なバイトしちゃってさー」などと語り合う、暗くて貧しい悶々の日々を送っていたのだった。

そもそものきっかけは、中学時代の同窓であるI氏の見たニュース番組であった。 彼の話によると注1、傷一つ無い衣服・靴などのブランド品が、東京都の最終ゴミ処分場である夢の島へ大量に捨てられているという。 これらの販売価格はそのブランドイメージで維持されている側面が強く、従ってそのイメージを保つため、売れ残りやモデルが古くなった製品については安売りなどせずに処分しているという。 プロレタリアートな我々は、そのことについて話を続けるうちに「もったいないよね」という点で意見が一致し、更に話を続けるうちに「拾いに行こうぜ」という結論に達した。 せめて衣装だけでもトレンディードラマ注2の主人公に近づきたい。 あわよくば友人などに廉価で販売して小銭を稼ぎたい。 我々にとってそこは、文字どおり「夢の島」だったのだ。

注1(I氏補足):ジパングを語るマルコポーロの如く語るのであった。 しかし、だからといって私が煽動したと考えるのは軽率である。 なぜなら、佐藤氏も夢の島の現状に関する十分な情報を(なぜか)もっていたからである。 彼は一人でも行ってしまったに違いない。

注2:死語。 

早速地図で調べてみると、夢の島へ陸路で達するには、関係車両のみ通行が可能な「第二航路海底トンネル」を通過する以外にないことが分かり、必然的に海路を探ることになった。 当時、I氏は「サバイバル同好会注3」なるサークルの部長をしていて、ボート等の装備の手配が付くという。 装備を運ぶ車両については、レンタルすればよい。 二人でバイクを走らせて下見に行ったところ注4、中央区有明3丁目の通称「鉄鋼埠頭」に、ボートの送り出し、戦利品の積み込みを行うのに適当な場所を見つけた。 ここは鈴木元都知事の行政下で、都市博覧会の会場として計画されていた地域であり、空き地や工場が多く、夜間であれば人目に付く恐れは無さそうであった。 また、最短航路がとれた場合、約2km程で「中央防波堤内側埋立地」の北端に達する位置でもあった。

注3:その活動内容としては、一日分の糧食のみを持って一週間山の中を彷徨う「インパール作戦ごっこ」とか、キャンパス内で捕獲した鳩の試食会など。 (‥楽しいのかな?)

注3(I氏補足):↑そんなことはない。 これは、サバイバル同好会で遭難を想定して行われる「まじめな」実験である。 ただ、少量の水と救難非常食のみで海岸線から内陸部まで移動するため、一週間で6〜7キロはやせる。 ちなみに、鳩はまずかった。 

注4(I氏補足):下見はバイクでの偵察ばかりではなかった。 ある時は徒歩で、ある時は水上バスから行われた。 今となっては笑い事だが、当時の我々は本気だった。 心境としては「あの島に行けば幸せが落ちている」という妄想にとりつかれた密航中国人と同じか。 

実行の日時が決まると、I氏はボートなどの装備品の手配を、私は車両の手配を行った。 また、我々は二人とも四輪車についてはペーパードライバーであったので、私の大学の同級生であった石川君に運転手をお願いした。 石川君は比較的常識人であり、あまり(と言うか、全然)気乗りしない様子であったが、無理矢理お願いして引き受けてくれることになった。 そして、実行当日の午後9時、レンタカーオフィスが閉まる直前に幌付き2トントラックを借りると、その足でI氏の待つ大学学生寮へ向った。 そこで装備を積み込むと、夜11時頃まで時間をつぶし、トラックを鉄鋼埠頭へと向かわせた。 I氏の同期だという寮生3人ほどが、見物に付き添ってきた。

従って、なかなかの大人数で向かったわけなのだが、用意したゴムボートは二人乗りのものが1つだけだったので、I氏と私のみが上陸を試みることになった。 我々は、万一の事態を考えライフジャケットを着用すると、静かにゴムボートで海面へ滑り出た注5。 穏やかな晩であり、また進行方向に向かって微風が吹いていたことも手伝い、順調な航行であった。 I氏が漕いでくれていたので、私は特にすることもなく、目的地の広くて暗い陰や、フェリーターミナルの航海信号などをぼんやりと眺めていた。 それにしても夜の海というのは、ひどく人間の恐怖心を煽るものである。 波もほとんどない穏やかな海で、かつその気になれば岸にまで泳ぎ着く事も可能な海域であったにも関わらず、その音のない黒い海中に吸い込まれてしまいそうな気がしてくる。 そんなことを話していると、ボートを出してから1時間ほどで、夢の島の一端に到着した。

注5(I氏補足):この際用意されたボートはあくまで釣り用のものであり、海での利用は想定されていないと思われる。 なお、ライフジャケットは船舶艤装品で本物。 不自然な取り合わせである。 

夢の島は、高さ2.5m程の鉄の壁に囲まれており、我々の上陸を拒んでいた。 壁は垂直であり、当然手がかりも何もなく、我々は途方に暮れた注6。 また、仮に上陸できたにしても、今回の計画の目的である様々な物品の積み込みには、多大な苦難が予想された。 これは予期していない事であったが、しかし、常識的に考えてみれば当然のことでもあった。 ゴミで海を埋め立てる際に、もしその埋立地を壁で囲まなければ、周辺海域を著しく汚染させてしまうだろう。 日本の領海、それも東京湾で、そのような埋立が行われているはずもない。 それでも我々は、何とか上陸できる地点を探すべく、しばらく壁に沿ってボートを漕いでみたが、その壁はどこまでも続いているようであった。 上陸は諦めざるを得なかった。

注6(I氏補足):上陸を考え、フック付きのザイルを持って行くべきであった。 

帰りの航路は、行きに我々を押してくれた風があだとなり、ボートは遅々としてなかなか進まなかった。 加えて、作戦が失敗した事による志気の低下が、我々の気分をさらに陰惨なものにした。 二人は互いに顔を背けたまま、気まずい沈黙の中にあった。 「一体、何の為にこんな所まで来たというのだ?」。 櫂が水を押しのける音だけが、ただ辺りに響いていた‥。 ふと、進行方向1500m程前方にあるフェリーターミナルを見ると、ずっと停泊していた大型フェリーが出航するのが目に映った。 このような大型船舶の航行には、通常大きな波が伴うため、その近くをボートなどで浮かんでいるのは大変危険である。 しかし、フェリーターミナルは我々の進行方向の左側にあり、フェリーはそこから左方向に進んでいるので、巻き込まれる心配はなかった。 「あのフェリーは、こんな時間にどこまでゆくのだろう」。 「釧路行きじゃないかなぁ」。 などという短い会話の後、我々はすぐに興味を失い、互いに目を背けあった気まずい沈黙が、再び辺りを支配した‥。

ため息と共に、再び視線をフェリーの方向にぼんやりと向けると、信じられない光景が目に入って来た。 いつの間にかにフェリーは回頭をして注7、我々の方向に真っ直ぐ向かって来るではないか!!一瞬、何が起こっているのか分からなかった。 やがて正常な判断力が頭に戻ると、私はI氏にその光景を指さした。 「おい!」。 「あっ!!」。

注7(I氏補足):船舶は通常、右舷("ポート"という。 ちなみに左舷は☆の見える方の甲板という意味で"スターボード"という)を接岸するため、港から出ていくときに回頭を行う。 

周囲の状況から、フェリーはそのまま回頭を続け、我々の航路を垂直に進行することが予想された。 この時、我々のボートは、夢の島の壁から300m程進んだ所にあった。 私はすぐに夢の島方面へ戻ることを提案した。 しかしI氏は「フェリーは恐らく、この先4〜500m辺りを通過するだろう。 それだけ離れていれば、直接の波はしのげるはずだ。 それよりも壁に近づきすぎると、波の返しを受けるからかえって危ない!」と主張した。 夢の島方面に戻るにしても、速度の遅いゴムボートのことである、フェリーが通過するまでに幾ばくかも移動できないだろう。 我々は、その場所にじっと留まり、恐る恐る様子を伺っていた。 予想通り、フェリーは回頭を続け、我々の進行方向約500m辺りを通過した。 また、あまり速度が出ていなかった為か、やってきた波も小さなものであった。 やがてフェリーは、我々の視界から消えていった。

我々は、安堵のため息を付くと、心の動揺を鎮めるため小休止し、そして風上に向かって再びボートを進め始めた。 以前よりも深く気まずい沈黙が、辺りを支配した注8。 石川君やI氏の友人は、健気にも起きて我々の到着を待っていてくれた。 我々は彼らの見守る中、遂に出発地である鉄鋼埠頭に接岸した。 時計を見ると、ボートが出てから5時間近くが過ぎていた。 長い、航海であった。

注8:本当は時間的には、ここからがもっとも長かったのだけど、特に書くことも起きなかったので、略しました

石川君 「いつまで待たせるんだよー。 ものすごく眠くて、寒くて、退屈だったぜ」
   私 「いや‥向かい風が‥‥その‥。 申し訳ない」
石川君 「で、何か面白いもの拾ってきてくれた?」
   私 「それが‥。 上陸できなくてね‥」
石川君 「‥‥」
   私 「‥‥」

ごめんネ、石川君。 でも僕らも辛かったんだよ。


 

〜 後書き 〜

本文は、1999年2月に石川君が結婚したとの知らせを人を通して聞き、「そういえば、こんな事があったな」と思い出した事をまとめたものです。 なお、昔の話で細部の記憶が曖昧だったために、I氏に補足をお願いしました。 彼も今では、虎ノ門の某財団法人に就職し、忙しい日々を送っているようです。

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