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最終更新日 2004年5月29日

実録! 富士村荘の攻防 (1994年秋〜冬)

1993年4月から1995年3月まで、私は東京都文京区本駒込2丁目の富士村荘という古下宿に寄宿していた。 それは戦後すぐに建てられながら補修もほとんど行われず、さらに西日がまともに当たるにも関わらず電源が貧弱でクーラーも付けられないといった、プロレタリアートの哀愁漂う下宿であった。 それでも、私は部屋の壁を塗り替え、ふすまを張り替え、木材部分にはニスを塗るなど、大家に無断でリフォームを行い、自分の部屋については上品で落ち着いた環境を構築していたと自負していた。 実際、私の部屋へ遊びに来た友人たちは、みな口をそろえてこう言ってくれたものだった、「そこの散らかった廊下を歩いてきた時は、どんな所に連れ込まれるかと心配したけど、とてもきれいな部屋ですね」。 そう、当時の富士村荘の廊下は、雑多なガラクタで埋まり、ほとんどスラムの様な状況だったのだ。

その元凶は、私と同じフロアの部屋で一人暮らしを営んでいたおばあさん(当時85歳)であった。 このおばあさんは決して悪い人ではなかったのだが、老人に特有な収集癖が異常に強く、その質素な生活からは考えられないほどの大量の荷物を所持していた。 そして、下宿の廊下の全長(自分の部屋の前であるなしに関わらず)にわたり荷物の入った段ボール箱をうずたかく積み上げていたのだ。 その数、推定約100個。 一度私はそれらの段ボール箱に何が入っているのだろうと思い、夜中に5、6箱開けてみたことがある。 調査の結果、これらの荷物の大部分は、意味のないガラクタ(e.g. 海苔の空き缶、割れたプラスチックタッパーなど)であることが判明した。 密かに、私は決心をした、「3ヶ月以内にこの廊下の徹底整理を完了させる」と。 

私には、廊下に積み上がった荷物すべてを、おばあさんが把握しているとはとても思えなかった。 そこで、それらが少しずつ減っていく分には当分気づかれないだろうという判断のもと、ゴミ収集日の度にガラクタの詰まった段ボール箱を1つ、また1つとゴミ捨て場に運んでいった。 またゴミ捨て場についても、最寄り、1ブロック先、2ブロック先と毎回変えることで、早起きのおばあさんが気づくことのないように配慮した。 この方法はある一定の成果を収めることができ、段ボール箱で約10個分ほどのガラクタの処分に成功した。 しかしある朝、前の晩にゴミ捨て場に運んだはずの段ボール箱が、元に戻っている事があった。 日を改めて別の段ボール箱を別のゴミ捨て場に運んでも、やはり次の日の朝には戻っている。 どうやらおばあさんは、私の作戦に気づき、毎朝ゴミの収集車がくる前にゴミ捨て場の巡回を行っているようであった。

もはや以前の方法では戦果が得られなくなった為、私は戦術を転ずることにした。 すなわち「一度に大量の荷物を捨ててしまおう」作戦である。 我々の部屋は二階にあり、一階とは狭くて急な階段で結ばれている。 もし、一度に大量の箱が捨てられた場合、85歳のおばあさんの体力では、そのすべてを持ち上げることなど到底不可能であろう。 この場合、多少の荷物は戻されるだろうが、残る大部分は時間切れとなってゴミ収集車によって回収されてしまうことが期待される。 私は、この名案を早速実行に移した。 午前1時半頃、足音の比較的静かなゴム底靴を着用し、静かに自室のドアを開け、作業を開始した。 そして念を入れて、最寄りよりも1ブロック離れたゴミ置き場に、次々に段ボール箱を運んだ。 わざわざ離れた場所に運んだ理由は、いうまでもなく、おばあさんがこれらの箱を戻そうとする気力を挫くためである。 その時期の東京にしては、かなり冷え込んだ晩であった。 それにも関わらず、荷物を持って何度も階段を往復する私の額には、うっすらと汗がにじんでいた。 「若い僕にとってすら結構な労働なのだ、老人にこの真似ができるわけがない。 ましてや荷物を下ろすのではなく上げることになるのだ。 したがって、この作戦は成功であろう」。 廊下の全荷物の約60%を運び終えたところで、私は作業を終了した。 そして布団に潜ると、心地よい疲れと達成感と共に、たちまち深い眠りへと落ちていった。

しかし、私は物のない時代に育った世代の物に対する執着の強さを、過小に評価していた。 翌朝目を覚まし、共同便所を使用するため廊下へ出ると、なんと昨日ゴミ捨て場に移動しておいた段ボール箱が、すべて廊下に戻っているではないか! 結構重い箱もあった。 大きな箱もあった。 そのような大量の荷物を、85歳のおばあさんは、たった一人で富士村荘の急な階段を運びあげたのだ。 思いがけない老人力を目の当たりにした私は、深い戦慄を覚えるのを禁じ得なかった。

犯人探しは、その日から始まった。 私が夜遅く(午後11時半頃)にアルバイト先から戻り、部屋の鍵をガチャガチャ開けていると、おばあさんの部屋の扉がかすかに開く音が聞こえた。 おばあさんは、午後5時半頃銭湯から戻り、夕食の後にテレビをしばらく見てから、午後9時半には消灯をするという生活を続けていた。 したがって、この時間におばあさんが起きていることなど、通常ありえない。 不審に思い、その扉の隙間に目を向けると、暗闇の中、白髪を逆立てた寝間着姿のおばあさんがこちらを凝視している。 「監視されている!」。 私は労働の疲れも忘れ、ただ底知れぬ恐怖を感じていた。 その後も、おばあさんの監視は、夜中私が便所に行く際にも、銭湯から戻ってくる際にも続いた。 ただ少々安心なことに、おばあさんはまだ容疑者が絞り込めていない様子であった。 なぜならば、監視の目は他の住人に対しても向けられていたようであったからだ。

そんな胃の痛かった一週間を終えた日曜日の午後、私が大学の宿題を終えて部屋でパソコンゲームに興じていると、廊下で話し声が聞こえてきた。 富士村荘は古い木造建築なので、廊下での話し声は薄いドアを隔てて、すべて筒抜けになってしまうのだ。 耳をそばだてると、おばあさんと大家さん(中年の女性)の会話が耳にはいった。 「ここに荷物をおいておくと何でもかんでも捨てられっちまうの、誰がやってるのは分からないの!」。 どうやらおばあさんが大家さんを呼び出して、苦情を言っているようである。 不運なことに、その現場に住人の一人である中国人留学生のお姉さんが通りかかってしまった。 「あんたここにあった、あたちの荷物知らない!?(*:おばあちゃんは江戸っ子なので"し"の音がうまく発音できないのだ)」、どうやらおばあさんは彼女を疑い、尋問を行っている模様であった。 「私テワないです」否定する彼女に対し、おばあさんは更に食い下がっていった。 そして、話をしながら徐々に感情的になってきたらしいおばあさんは、遂に禁断のセリフを口走ってしまった。 

「こういうひどいことは日本人は、ちない!」

こんなことを言われたら、ふつう怒るし、まあ怒るべきだろう。 で、実際彼女は怒っちゃいました。 「おばあさん、それトォいう意味!」

聞き耳を立てていた真犯人の私(日本人)は、そのまましばらく頭を抱えていたものの、さすがに放って置くわけにもいかなくなり、意を決して扉を開いた。 そして、自分が犯人であることは無論伏せたまま、「だいたいですね、共同スペースである廊下へ荷物を置くのがいけないんですよ。 ちょうど皆さんそろっていらっしゃることですし、片づけましょう」と大家さんに提案をした。 険悪となったその場面を打開するため、大家さんには私の提案に同意すること以外の選択肢はなかった。 かくして、荷物の所有者の意見は一顧すらされることなく、半ば強制的に片づけが執行されることになったのである。

我々は最初に、おばあさんの部屋の中を整理することにした。 廊下の荷物を中に入れるには、その部屋にも物が多すぎたからだ。 おばあさんの部屋も我々の部屋と同じく、四畳半の居間+半畳の台所という間取りであったが、居間の壁3面と台所の上に棚が作ってあり、部屋の広さの割には収納スペースは豊富であった。 しかし、やはりここにも古びて埃にまみれた段ボールがぎっちりと詰め込まれており、さらに部屋の中にはなにやら異臭が漂う。

こみ上げる吐き気をこらえながら、我々は、棚から箱を一つ一つ降ろし、箱の中身を暴いていった。 3箱に1箱位は、衣服など本当に生活に必要と思われる物品が入っていたものの、残りの箱はガラクタ(e.g., 壊れたラジオ、腐った食料品など)であり、我々は情け容赦なくこれらをゴミ袋の中に詰め込んでいった。 しかし、その様子がおばあさんの目にはいる度に「それは捨ててはいかんのじゃ」と妨害が入るのだ。 初めのうちこそ所有者の意思を尊重していた我々であったが、埃と悪臭と、そして箱を開くたびに現れるゴキブリの群れに、だんだんキレてきた。 そして、私がおばあさんに「では、そちらの荷物はどういたしますか?」と話しかけ、視線と注意を別の方向に転じさせている間、留学生のお姉さんがガラクタをゴミ袋に詰め込むといった絶妙な連係プレイが起用され、部屋の荷物をほぼ半分(!)にまで減らすことに成功した。

同様にして廊下の荷物も半分以下にまで減らし、いよいよそれらをおばあさんの部屋の中に片づけることになった。 これだけ減らしても、四畳半の部屋に入れるにしては大量の荷物であったが、とにかく三面の棚に詰められるだけの荷物を詰めて、なんとか体裁を整えた。 それなりにバランス等には配慮して積み上げたつもりだったものの、なにぶん大量の荷物を狭い棚に押し込んだのだ、まあ震度4、5程度の地震でほぼ確実に全壊したであろう、あれは。 しかも、大型炊飯器や壊れたアイロンなどの重量物も多く、夜中にそこそこ大きな地震にあったら、まず無事ではすまなかったはずである。

さてここで、物を持ち続けることのコスト-利益モデルを考えてみよう。 このおばあさんのガラクタの場合、まあ使おうと思えば使えなくはない物も多少は含まれていたので、所持しているアイテム数が多くなればなるほど、各アイテムを使用する機会の合計値は高まるであろう。 ただし、所持しているアイテム数が多くなると、持っているけども忘れているというアイテムが生じるため、"アイテム数"と"各アイテムを使用する機会の合計"は単純な比例関係にはならず、減速型の増加の後、ある値で飽和するであろう(ちなみに年齢が高いほど速く飽和するだろう)。 以上が利益の構造である。 次にコストについて考えてみよう。 おばあさんが物を持ち続けることのコストは、次の各要素の線形結合で与えられるはずである。

各要素の相対的な重要性には個人差があるため、当然、最適なアイテム数についても個人差が生じるだろう。 しかし常識的なパラメーター範囲においては、このおばあさんの所持すべき最適アイテム数はかなり少ないのではなかろうか? つまり何を主張したいのかというと、「一連の私の行動は、おばあさんの為にもなった」という客観的推論である。 このように、科学的思考というものは我々の生活とも密接に関わってくる。 この文章をご覧の皆様もぜひ精進して、私のようなモノゴトの善悪を正しく判断できる立派な人間になって欲しいものだ。

ともあれ、富士村荘の廊下は見違えるようにきれいになり、モルタルの壁が裸電球に照らされて、なにやら品格すら感じられるまでになった。 その後も、おばあさんは空箱などを廊下に置いて、たびたび収納スペースの拡張を企てることがあった。 しかし、そのようなものは3日以内にすみやかに処分され、その領土再獲得の野望は成し遂げられる事はなかったのである。

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