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「トイレはこちら」

発表    :1988年 三一書房 「ジョバンニの父への旅」に収録
ジャンル  :
戯曲


 登場人物は2人のみ、上演時間が普通の演出で45分程度という、商業ベースでの上演がなかなか難しいと思われる作品。もっとも、別役の戯曲にはストーリーらしいストーリが無いことが多く、約一時間半という標準的な上演時間では、後半ややうんざりしてくることもあります。したがって、この45分前後というのは、上質の緊張感が持続できる丁度よい時間なのかもしれません。「トイレはこちら」は、別役の世界がコンパクトに凝集された作品であり、私の最も好きな戯曲の1つです。

 戯曲の書き出し部分を引用してみました。

−−−−〈戯曲集より引用〉−−−−

 街燈が立っている。そのかたわらに、首吊り用の、先端が輪になったロープがぶら下がっている。ロープの下に、足台となるミカン箱が置いてある。その横にベンチ。女が、大きなぬいぐるみの人形と、カバンと、塩の入った欠け茶碗を持って、何やらぶつぶつ言いながら、現われる。

: ともかく、このあたりを曲がったんじゃないかしら‥‥。そう、ここよ‥‥。何となくそれらしい感じがするでしょ。(街燈を見て)もちろんこれが、葉っぱの生えた本物の木で、ここが森の中で、風が吹いたらサワサワと音がするようだともっといいんだけど、しょうがないでしょ、そんなとこないんですから‥‥。(人形を無造作にベンチに座らせ)あなたは、ここに座って見てなさい。しっかり見てなきゃ駄目よ。こんなこと、めったに見られるもんじゃないんですからね‥‥。(人形のかたわらに、塩を盛った茶碗を置いて)本当は私が見ていたいんだけど、そうもいかないじゃないの‥‥。(カバンから線香を出し、火をつけて茶碗に立てる)嫌な匂い‥‥。どうしてお線香って、どれもこれも同じ匂いなのかしら‥‥。

−−−−〈ここまで引用〉−−−−

 別役の芝居における最も大きな特徴の1つとして、その至る所に死のにおいが溢れている点が挙げられます。この死とは、ただそこにあるといった種類の死であり、一切の論理的必然を伴ったものではありません。たとえば「トイレはこちら」に登場するこの女についても、なぜ彼女が自殺をしなければならないのか、まったく説明されることがないのです。他にも、登場人物全員が理由もなく死んでしまうような戯曲もあったりと、一見かなり不条理な印象を受けるかもしれません。しかし、このように随所に見られる死のにおいは、彼の世界を構成する上で必然的に伴う設定なのです。

−−−−〈戯曲集より引用〉−−−−

: 何ですか‥‥?

: 私が考え出したこの首吊り用の仕掛けです‥‥。

: あなたが考えたんですか‥‥?(立ち上がる)

: 私が設計図を書いて、三階のウエムラさんに作ってもらったんです‥‥。三階のウエムラさんていうのは、今は何もやっておりませんが、昔、煙突掃除をやっておりましてね、だから得意なんですよ、高いところに登るのが‥‥ あなたはどうです‥‥?

: 何がですが‥‥。

: 高いところに登るのは‥‥?

: 私は駄目です‥‥。

: じゃあ正解だったんだわ、ウエムラさんに頼んだのは‥‥。しかも彼、材料費だけでやってくれらんですよ、これを全部‥‥。

: (興味を示して近づき)どうやってやるんです‥‥。

: ですからね、このみかん箱の上に立って、ロープを首にかけて、それからこの箱を蹴るんです‥‥。

−−−−〈ここまで引用〉−−−−

 張りつめた静けさの中でなされる日常語の会話、ただそこにある死。そこから生じる微妙なズレ。この様に、別役の戯曲において登場人物の会話は、必ず何らかのズレを伴います。そしてこのようなズレの蓄積と、随所に見られる死のにおいこそが、どこにでもある日常から、その裏側の世界へとスルリ通り抜けさせる「仕掛け」のひとつなのです。

 ところで別役の戯曲のもう1つの大きな特徴として、その世界の具象性を極力排し、いうなれば記号的な表現を徹底している点が挙げられると思います。例えば、どこにでもありそうな電信柱(「トイレはこちら」では街燈ですが)とベンチのみがポツンと舞台におかれている、などという舞台設定はその典型で、これは彼の多くの戯曲で執拗に登場します。小道具や衣装の1つ1つにまで気を配って世界を構成するようなタイプの芝居とは、対極的と言えるでしょう。

 この観客に与えられる情報を最小に留めるという構造は、それぞれの観客が無意識のうちに芝居の細部を補完する、という効果を生み出します。そのため出現した世界は、舞台の上にとどまらず、それぞれの観客の心のヒダの深部にまで染み込んで来るのです。

 そのような別役の意図は、彼の戯曲において登場人物の名前や具体的な地名が挙がる際には必ずカタカナで書かれている点にも、端的に現れています。つまり”3階のウエムラさん”は、植村さんでも上村さんでもなく、ウエムラさんでなくてはならないのです。もちろん、芝居を見る側にとっては、そんなことは区別できようもありません。しかし、演出家や役者は、常にこのことを忘れてはならないでしょう。

 、、、さて。

 以上のように解説されると、「理解」できたような気がしたり、あるいは陳腐な感じすら受けてしまうかもしれません。しかし実際に舞台に接することで受ける印象や感動というものは、いくら言葉を尽くしたところで、その表層しかたどることができません。ですので、皆様には是非、舞台にまで足を運ばれることをお勧めしたいです。もっとも、別役の舞台は好みが非常に分かれるため、気に入って頂けない可能性も極めて高いのですが、、。

 でもまあ芝居に限らず、すべての表現活動(いわゆる芸術)に対する相性には非常に大きな個人差があるので、これは仕方のないことでしょう。どうか、「騙された」なんて言わないで下さいね。




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