劇団 :MODE+世田谷パブリックシアター
原作 :フランツ・カフカ
構成・演出 :松本修
出演 :粕谷吉洋、石村美伽、笠木誠、佐藤淳、石母田史郎ほか
上演会場・日時 :シアタートラム (2003年3月9日)
原作はカフカ未完の長編小説「アメリカ(失踪者)」です。 舞台は20世紀初頭、アメリカに渡ったドイツ系ユダヤ人の少年が出くわす出来事を綴った物語。 まあカフカですから、物語といってもディテールだけ細かくて、話に一本筋が通っているわけではないんですけどね。 この舞台は再演でして、初演に寄せた俵万智の文章がパンフに載っていたので、そのまま勝手に引用してしまいます。 この舞台を描写する上で、これ以上的確な文章を、僕は書くことができないので、、。
「生きるって、こういうことだよなあ」− 「アメリカ」を観て、つくづく思った。
全体のストーリを思い返すと、むちゃくちゃ不条理なのだが、部分部分がすごくリアルに描かれている。 たぶん私たちも、一日一日は、ごくあたりまえに、それなりの意味づけをしながら暮らしつつ、その人生を俯瞰したときには、この芝居のように、けっこう理不尽な事を、「必然」と受けとめざるを得ないところで、生きているのだろう。
カフカ自身は、この物語を「失踪者」と呼んでいたという。 ふつう失踪という言葉は、その人を見失った側からつかわれる。 つまり私たちは、常に過去の側から見た失踪者なのだ。 過去から見れば、失踪したとしか思えない場所を、生きているのだ。
初演だったが、ロングラン公演されているものを見たような印象だった。 それほどよく作りこまれている。 俳優陣のアンサンブルに、時間の厚みを感じた。 主張の強い振付も、時を中断する字幕も、音や光と同じように必要とされている。 これは、滅多にないことだろう。ラストシーンにも、私は普遍性を感じた。 いつの時代であっても、あの列車に人々が乗せられる可能性は、あるのだから。
「アメリカ」を観て一週間ほどたったころ、私は夜中のバーに、無理やり友人を呼び出した。 彼が「あまり、ぴんとこなかった」と言っていたのを思い出し、猛然と議論したくなったのだ。 酔った勢いとはいえ、申し訳ないことをした。
「だって、あれは人生そのものでしょう」
「そ、そうかなあ。 場面場面はよくできていたけど、展開が理不尽すぎて、、」
「だから、それが人生だっちゅーの。 キミだって、今まさに理不尽な目にあっているじゃない。 今朝起きたとき、今夜私に呼び出されるなんて、予想もしてなかったでしょ?」
こう言ったとき、彼はハッと顔をあげ、大きく頷いた。
「アメリカ」の主人公はドイツ育ちらしく、何事に対しても生真面目で、また極めて常識的な判断をするキャラクター。 それなのに、よく分からない理由で、叔父の家を追い出されたり、仕事が見つかったり、その仕事が首になったり、警察に捕まりそうになったり、何度も何度も理不尽な目に出くわしてしまいます。 でも、上の文章にもあるように、世の中ってそんなものなのかもしれませんね。 真面目かつ常識的に日々を送っていたとしても、明日になったら天然痘ウィルス満載のテポドンが飛んできて、体中イボだらけになって死んでしまうかも知れないのだから(だからとっとと9条を破棄して、ミサイル発射基地とBC級兵器貯蔵施設を先制攻撃しようぜ)。
とまあ、こんな感じでお話は暗いのだけど、舞台は喜劇仕立てにしてあって明るく楽しい演出でした。 上演時間は途中休憩を挟んでの3時間半。 この作品の肝は、様々な出来事が互いに脈絡もなく起き続けるところにあると思うので、これくらい長いのは仕方がないでしょう。 演出、役者共によく作り込まれており、舞台のテンポも良く、また全編に顔面神経の痙攣のような変なダンス(でも格好良いんだ、これが)が散りばめられていて、意外と退屈はしませんでした。 ストーリーらしいストーリのない舞台で3時間半退屈させないと言うのは凄いことだと思う。
この9日の上演後には、NYLON100℃のケラリーノサンドロビッチ氏(日本人です)と、この舞台を演出した松本修氏との対談があったのですが、二人とも「たまには筋の通らない舞台も良いじゃないか!」と主張しておりました。 途中、僕が敬愛する別役実氏(もっともっと筋の通らない戯曲を書きまくっているオジサン)の話なども出てきて、氏の存在というのは今日の日本の演劇に大きな影響を与えているんだなぁ、と感じた。