劇団 :新国立劇場プロデュース シリーズ「現在へ、日本の劇」3
作 :別役実
演出 :坂手洋二
美術 :妹尾河童
出演 :寺島しのぶ、手塚とおる、猪熊恒和、富司純子、早船聡
上演会場・日時 :新国立劇場中ホール(2003年4月19日)
今、日本で観ることのできる演劇の最高峰だと思う。
お話を紹介すると、こんな感じ: ある大晦日の晩、子供を幼くして亡くした初老の夫婦が、「夜のお茶」の準備をしている。 そこへ市役所の方から来たという見知らぬ女が訪れ、夫婦の実の娘だと告げる。 自分はかって「マッチ売りの少女」であったというだ。 そして、いないはずの弟まで登場する。
「マッチ売りの少女」は初演が1966年、別役実の最初期の戯曲で彼の出世作。 この頃の別役は、同世代の多くの若者がそうであったように、政治活動に深く関わっており、その影響が戯曲にも色濃く表れています。 その典型例が「マッチ売りの少女」で、ここで表現されているのは別役の戦後論(たぶん)。 今では善良な一般市民の顔をして、つつましく暮らしている人々達によって進められていった戦争。 それが次の世代の日本人に与えた心の傷。 その事に対する説明も責任もないまま戦後20年を経てしまった居心地の悪さ。 そのような戯曲の性質もあって、別役の作品としては珍しく、饒舌に舞台の状況が説明されています。 感じをわかって頂くために、ちょっと手持ちの戯曲集からナレーション部分を引用してみましょうね。
その頃、人々は飢えていた。毎日毎日が暗い夜であった。街は、沼沢地の上に生臭くひろがり、ところどころ、ハジケタおできのように、市場がひらかれた。ものかげでいくつかの小さなものが殺され、ひそかに食べられた。人々は忘れられた犯罪者のように歩き、時に思いがけなく、何かスバシコイものが闇をくぐりぬけて走ったりした。
その街角で、その子はマッチを売っていた。マッチを一本すって、それが消えるまでの間、その子はその貧しいスカートを持ち上げてみせていたのである。ささやかな罪におののく人々、ささやかな罪をも犯しきれない人々、それらのふるえる指が、毎夜毎夜マッチをすった‥‥‥。そのスカートがかくす無限の暗闇にむけて、いくたびとなく虚しく、小さな灯ががともっては消えていった‥‥‥。
かぼそい二本の足が、沼沢地に浮くその街の、全ての暗闇を寄せ集めても遠く及ばない、深い海のような闇を支えていた。闇の上で、少女はぼんやり笑ったり、ぼんやり悲しんだりしていた‥‥。
それにしても、陰残で生臭くもありながら、不思議に透き通った文章ですよね。 この「かぼそい二本の足が、沼沢地に浮くその街の、全ての暗闇を寄せ集めても遠く及ばない、深い海のような闇を支えていた」なんてあたり、これだけでも詩になっています。 別役実の文は、どこか冷めた剽軽さを感じさせる文体が持ち味なのだけども、こういうのを書く能力もある人なのだということを再認識しました。
まあ戦後論とか何とか難しい事はどこかにおいておいても(そもそも、個人的には、理解はできても同意しかねる戦後論だし)、舞台は別役らしい毒がよく表現され、単純に楽しむことができました。 善良で無害な市民を自認する老夫婦のささやかな秩序が掻き回される可笑しさ、気まずさ。 「マッチ売りの少女」が抱える深い闇と狂気。 キャスティングでは、いろいろあったと聞いておりましたが(病気で倒れた役者の代役が演出家と喧嘩別れして、代役の代役を立てたそうな)、そんな事はみじんも感じさせない素晴らしい息の合い方でした。
妹尾河童(「少年H」の著者)による舞台セットも非常に美しく、このレベルであれば舞台芸術と言っても差し支えないと思う。 客席の周囲には昭和40年初期の日本の住宅街、砂(?)がサラサラと落ちてくる二本の長いパイプが舞台脇に配置され、そして舞台中央に大きな黒い四角い台。 この台には同心円状の溝がバームクーヘンのように幾重にも刻まれていて、その中心に小さなテーブル。 主な芝居は、この黒い台の上で行われるのですが、この台、中央の円と外側の同心円の一部が逆方向にゆっくりと回転できる仕組みになっていて(わかるかな?)、これが歪んだ世界の表現に一役かっていました。 こんな舞台や演出は初めて見た。 一見地味な舞台セットだったのだけど、きっと相当な気遣いと労力とをつぎこんだんだろう。
客層は、やはり年配の方が中心ではあったものの、やや話題となった作品だけに、若い方もちらほらと見受けられました。 別役の世界というのは、日本人特有のメンタリティーを鋭くえぐり出すことに成功した普遍的なものだと思うので、是非とも次の世代に残って欲しいものです。